支那と呼んで何が悪い !!?

        
       
       
支那の語源 と 中国の語源

中華人民共和国 は ほとんど日本語で出来ている



丹羽伊藤忠大使の車がアメリカの差金で襲撃されて中華人民共和国政府は、アメリカの顔も立てなければならず、日本には謝罪しなければならずで、その対応にはほとほとお困りのようで、遂には中国広東省の民間企業幹部に8月24日、中国版ツイッター 「 微博 」 で 「 1949年から71年まで中国政府は釣魚島( 尖閣諸島 )を日本の領土と認めていた 」 と異例の発言の発言をさせて事態の収拾を図るなど涙ぐましい努力をしてるようだが、云うべきことはきちんと云うべきと、以前より書くつもりだった 「 支那 と 中国 」について書くことにします。

「 支那人 」と呼ばれると支那人は怒るそうだが、実際には怒る支那人は馬鹿である。

日本人のほとんどはマスゴミもニッポン簒奪政府も、支那 のことを 中国 と呼ぶが、こんな呼び方をしている国は世界200各国弱の中でも極めて稀な存在である。

では、ほとんどの国々は何と呼んでるかというと、

   英語に代表される  CHAINA チャイナ

である。
このスペルを代表的な言語で読むと

   フランス語    シィナ
   スペイン語    チナ
   ポルトガル語   シナ
   オランダ語    シナ
   イタリア語    チナ ( cina )
   ドイツ語     ヒナ

となり、その語源を求めると

   サンスクリット語( ヒンドゥ語 ) シナ ( 震旦 cina )
   ギリシャ語   シナ ( cina 中国の絹糸 )

となる。
サンスクリット語がギリシャに伝わりそこから 「 CINA 」のスペルが誕生した。

では、「 CINA 」とは何か?

    「 秦 」 である。

「 秦の始皇帝 」の秦。
世界で最初の「 皇帝 」 を名乗ったディオドトス1世の帝国。

     秦      震旦・支那
    CIN  →   CINA

と、支那は、その最初の帝国の国名を今でも使っているのである。


秦の始皇帝 = 嬴政( えいせい )= バクトリア知事ティオドトス1世( 〜BC210 )は、BC256年、アレキサンダー大王の将軍セレウコス・ニカトルを継いだソテル王にクーデターを起こし、バクトリア・ソグド地域にグレコ・バクトリア王国( 大夏・大秦 )を興したが、西方のパルティア王国が独立して西方との連絡が絶たれたため、東方に進出。 東方の蛮族を圧倒的な武力で瞬く間に制圧し、大秦の分国 : 秦を建てて「 始皇帝 」を名乗った。

  ※ このストーリーはみなさんが学校で習った
    司馬遷の書いた 「 フィクション = 史書 」 のストーリーとは
    まるで異なっています。
    歴代支那王朝の自王朝正当化の為の文書である歴史書からは距離を置いた
    外部勢力による客観的な歴史書を集大成した 「 契丹北倭記 」 の
    詳細な分析と検証によって導き出された 「 史実 」 です。
   「 契丹北倭記 」 は、出典を明示した様々な古文書からの引用で
    構成されていますが、おそらくは秦の影響の及ばない北辺に位置しているため、
    始皇帝の 「 焚書坑儒 」 を免れた、まだ捏造の習慣のなかった頃の
    古文書を参考にしているものとも考えられます。
    なぜなら 「 契丹北倭記 」 の解読によって、
    歴史の点と線 ( ミッシング・リンク ) が見事に結ばれていくからです。
   「 焚書 」 は日本でも古事記・日本書紀編纂時に大々的に行われていますし、
    その対象となった、舎人親王( 新羅人 )の天皇記・日本記編纂時にも
    それ以前の蘇我系などの古文書の焚書が行われ、
    その後に自らの捏造歴史書を上程しています。
    大陸・半島・列島では、こうした 焚書 ~ 捏造 史書の歴史が
    連綿と続きますが、中でもひどいのが朝鮮半島の歴史書です。
    そのことは、昨今の韓国のひどさ加減を見ればよく理解できるかと思います。
    現在の政治経済などの報道が嘘で塗り固められている様に、
    いやそれ以上に、古代の公式文書( 歴史 )は嘘に満ち満ちています。

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グレコ・バクトリア王国の版図

このバクトリアの地 ( 中枢部はアフガニスタン北部 ) は
現在でも要衝の地で、かつてはソ連が敗退し、
最近ではアメリカが苦戦を強いられたものの制圧しました。
この制圧によって世界のヘロイン流通量は爆発的に拡大し
CIAのヘロイン・ビジネスは大成功を収めています。


始皇帝:政は、伝説に金髪碧眼とも云われるがその出典は明らかではない。 しかし司馬遷の偽書 「 史書 」には、「 秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲 : 鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)」と 東洋人ではない その風貌が表現されています。

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         ポンペイ出土の          兵馬俑
      イッソスの戦いのモザイク画
        左 : アレキサンダー大王
        右 : ダリウス3世



また、兵馬俑の兵士たちの身長は180cm前後と東洋人らしからぬ体躯で、身にまとう挂甲がイッソスの戦い( BC333 )でアレキサンダー大王と戦ったアケメネス朝ペルシャ:ダリウス3世の兵士のものとほとんど同じものです。 ダリウスの兜の上はマフラーのようなもので包まれ、鎧には肩当があり、足の付根部分はUの字にえぐられ、これもまた兵馬俑の兵士たちのものとの一致をみています。 さらに、ペルシャ軍の馬は、耳と尻尾の付け根が結ばれていますが、これもまた兵馬俑の陶馬と同じです。

ディオドトスは、ペッソスの末裔を名乗ったりもしてるようだが、ペッソス将軍とはダリウス3世がイッソスの戦いに負けた後、君主ダリウス3世を謀殺して自らペルシャ王を名乗ったバクトリアの総督(サトラップ)。 更に、秦の荘襄王は自らを育てた商人:呂不韋の妾を気に入り、生まれた子ども = 政 の実の父親は呂不韋との噂は始皇帝の時代からあったようだが、呂不韋の 「 呂 」は、ユダヤレビ族のことでもあり、レビ族バクトリア商人の子どもが 政 = ディオドトス1世ということであり、支那人がその祖とする「 CHINA = 秦 」 が実は、バクトリアのペルシャ系ユダヤ人の国だったことが明らかとなってきます。

始皇帝が、比類なき世界最強のマケドニア・ペルシャ軍団であるとすれば、後進国 : 春秋戦国時代の群雄割拠各国軍団をなぜ一気に殲滅できたかの謎がいとも簡単に溶けてしまいます。

また、始皇帝は、ペルシャのサトラップ制と同様の中央集権・郡県制の統治手法や、度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法、交通網整備など、ペルシャとの関連が指摘される手法を多く導入しています。

司馬遷の 「 史記 」 は、支那 〜 朝鮮 〜 日本のその後に続く偽書( 日本では「 古事記 」「 日本書紀 」など )の数々を編み出した偉大な 「 元祖 偽書 」 として今尚その名声を博しています。


支那人は、「 秦 」以前にあった 「 周 」「 殷 」などを漢民族ではない蛮族の国であるとして「 秦 」を支那王朝最初の帝国としていますが、じっさいにはその「 秦 」もまた支那人の国でなかったばかりか、「 漢民族 」の名称ともなっている 「 漢 」ですら支那人の国ではありませんでした。 そのあたりを熟知している中国の秘密結社:青幇・紅幇は、「 清 」の支配に抵抗して、漢民族なんてものはないから漢に帰れとは云わず、明に帰れ。と主張したと云われています。

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年表出典 : 人名歴史年表


そう、「 中国4000年の歴史 」云われる中で、実際の支那人による王朝とは 「 宋 」 と 「 明 」くらいしかなかったのです。 隋も唐も支那人云う処の北狄・西戎民族の帝国で、その前の五胡十六国もそのすべてが北狄・東夷・南蛮・西戎の民族国家であり中原に覇を競っていたのです。 もちろん 「 元 」 はモンゴル、「 清 」は鮮卑・満州族の国家でした。 このように支那は今も尚、多くの民族がそれぞれの地域ごとに群雄割拠する多民族国家なのです。
文化大革命によって自らのルーツと歴史を見失ってしまった支那人も多いかと思いますが、今後は自らのルーツの発掘を行って民族に根ざしたアイデンティティを確立し、文化や言語を再興するのが良いでしょう。



支那の語源 = 秦の始皇帝 への回り道が長くなりましたが、本論に戻り、「 支那 と 中国 」 の考察を続けます。

「 支那 」と云う国名・地域名は、インド人が付けたものでもなければ、日本人が付けたものでもありません。 孫悟空で有名な玄奘三蔵の『 大唐西域記 』巻五には、インド:ヴァルダナ朝の大王 ハルシャ( 戒日王 )の会話に、「 至那 」の表記がある。
玄奘と王との会話で、

  「 大唐から来ました。インドで言うマハーチーナ(至那)国です 」
  「 至那国には秦(チン)王という天子が居られると聞きました。
   大唐国とはこの国のことですか?」
  「 そうです。至那とは以前の時の国号で、大唐というのは我が王朝の国号です 」

    ※ 上記会話はウィキペディアからのものだが、
      以前読んだ書物には 「 支那 」と表記されていた。
      ウィキペディアは恣意的に誤情報を紛れ込ましていることが多々あり
      1〜3割くらいは間違ってるとみて差しつかえないので、
      『 大唐西域記 』に実際に書かれている表記が
      「 至那 」 ではなく 「 支那 」である可能性もある。

と説明している。
また、唐の玄宗皇帝による『 題梵書 』の詩には「 支那 」の文字が。

  鶴立蛇形勢未休
  五天文字鬼神愁
  支那弟子無言語
  穿耳胡僧笑點頭

このように、支那人は古くから自国のことを 「 支那 」と称していたのである。

最近では、清末期に日本に亡命してきた孫文を始めとする革命家たちは 「 清 」 の名称ではなく 「 支那 」を好んで使っていました。


では、「 中国 」とは何か?

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他国の者が、支那のことを 「 中国 」と呼ぶのは、「 我々は 北狄・東夷・南蛮・西戎 の野蛮人であり、中つ国:中華の册封を受け、ご指導いただく民族です。」 と表明していることに他なりません。
「 中国 」「 中華 」とは、 北狄・東夷・南蛮・西戎 とセットで用いられる用語であるため、「 中国 」と呼ぶことによって自動的に自らを蛮族へと貶めているのです。

「 册封 」とは、支那の属国 = 信託統治を受ける 「 自治区 」 に他ならず、独立国が 「 中国 」「 中国人 」などと、自らの人権を蔑む名称を用いるべきではありません。


しかし、支那人は現在の国名 「 中華人民共和国 」に実は日本語を用いるという、極めて親日的な態度を表明しています。

      中華   人民   共和国
      ↑    ↑    ↑
     支那語  日本語  日本語
           ↑    ↑
          Peaple  Republic

そう、英語を日本語に翻訳した 「 人民 」「 共和国 」を自国の国名に用いているのです。

これは孫文等、日本に亡命していた革命家たちが日本語を自国に持ち帰った結果なのです。

また時代をぐっと遡って、「 殷 」 の時代をみますと、この 「 殷 」の本国はメソポタミア:カルデア( カレンダーの語源 )のイシンであり、その東アジア本部( 本 )が故地 : ハットウシャ の名を引き継いだ九州:国東半島はアジアで最初の製鉄基地 : 現在の宇佐八幡であり、その( 支 )所が支那の地で商いを行う 「 殷(商)」だったのです。
殷の亀卜は必ずマラッカ海峡にだけ生息する亀の甲羅に甲骨文字を書いて行われました。
後世のマラッカ以外の海亀や陸亀、鹿の骨などを用いた卜占はこの亜流、真似事、つまりマガイモノと云えるかもしれません。 きっとマラッカ海峡の亀の甲羅のヒビの入り方が良かったのでしょう。 殷のナーガ族がわざわざ遠くマラッカ海峡の亀にこだわった理由が忍ばれます。
その甲羅に彫られた甲骨文字とはシュメール文字 = 楔形文字が変形したインダス文字であり、この文字の組み合わせで漢字が誕生します。 気学・易学もカルデアのカレンダーの元であるシュメールの占星術の翻訳です。
当時の外洋船はシュメール(フェネキア)人によって巨大なレバノン杉で造られたタルシシ船と呼ばれるもので、かなり高度な造船技術を擁し、船足も速かったものと推測されています。
「 東夷 」の 「 夷 」とは、恵比寿( エブス人 )のことであると同時に「 殷 」のことでもあり、司馬遷が 「 東夷の中に倭があり 」と云ったのは 「 倭 = 夷 = 殷 」のことを指してるものでもありました。
海の国 = カルデアが滅びその移民たちが遼東半島に亡命。 イシン王子:子叔箕賖( シンマシュシフ ) を王として 辰迂殷( しんういん ) = 箕子朝鮮 を建国。 支那・朝鮮の歴史において後世まで 辰迂殷 = 箕子朝鮮 の血統が重んじられるのはそれが実質的に最初の王朝であったためです。
その血統の一部が現在の天皇家の基礎にもなっています。


  ※ シュメールとスメル
    正しい発音・表記は、シュメル・スュメル・スメル のようですが、
    戦前の皇国史観の下で、天皇家の 「 皇 スメル 」 が
    メソポタミアと関連付けられては困る。
    と、云うことで、日本語での表記は 「 シュメール 」 と定められました。
    このことは、 「 古代メソポタミアの神々―世界最古の「王と神の饗宴」」の
    前書きだったかで、三笠宮崇仁殿下が書かれていました。



と、云うことで、みなさん、
これからは 「 中国 」と呼ばず 「 支那 」と正しく呼ぶようにしましょう。
「 中華料理 」 ではなく 「 支那料理 」です。




参考資料


鹿島昇 「 秦始皇帝とユダヤ人 〜 人民中国の教科書問題 」
1987年、新国民社

松重楊江・中原和人 「 教科書には絶対書かれない 古代史の真相
2005年、たま出版
※ ペンネーム:中原和人 とは、「 中原( ちゅうげん )の倭(和)人 」の意。
元々、中原には 「 倭族 」 が住んでいたと云う史実をペンネーム化したもの。


鹿島・松重・中原史学の著書一覧





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Commented by 通りがけ at 2012-09-07 17:32 x
うん素晴らしいですね。古代言語学と地理誌に忠実に則った見事な考察です。始皇帝が碧眼というのは読んだことがありますがバクトリアまで考古人類学的に遡及したこの考察はお美事。
さらに大分は秦氏(秦の末裔)が拓いたのかなと思ってましたが殷のほうが先着でしたか。宇佐八幡は私も好きなところでよく訪れますが楽しみが増えました。今後も期待しちゃいますね。
殷が出てきたついでに夏についても教えてください。あと、海底鍾乳洞や海底遺跡がある沖縄についてもお調べになっていればご高見を承りたく存じます.ご一考ください。
Commented by nueq at 2012-09-09 01:55
始皇帝の件、ありがとうございます。
でもこれは、鹿島昇さんの受け売りです。(^o^)ゞ
と、云うか中原先生の精度95%のチェック済みなので間違いないでしょう。

秦氏は、幾つかの集団が合弁して現在捉えられているような氏族となりました。
いずれにせよ、殷の時代からすればまるで最近の話しです。

夏は、支那には存在していません。
それらしき遺跡も最近発掘されて「 夏 」の遺跡とされていますが別の民族です。
「 夏 」は、司馬遷の借史によるもので、実態はシュメールのウル・ウルクのことです。

海底遺跡は、九州・四国・インドネシアなどでもたくさん発見( 与那国状態を見て秘密にしている )されていますが、全て海面下25~60mくらいです。
つまり、縄文海進前の石造建築物で、その名残が現在地上で目にすることの出来る磐座です。
磐座は、縄文前期にピュルム氷河期時代の高度な石造建築技術を引き継いで造られたものですが、ある勢力がそれを破壊した残骸なのです。
Commented by 通りがけ at 2012-09-13 23:16 x
夏はシュメール・ウル・ウルクのことでしたか。メソポタミア地域ですね。これにはやや疑問を抱いています(笑)。
というのは始皇帝事績の記述に、封禅の儀を山東の泰山で執り行ったとあります。焚書坑儒した始皇帝が実は孔子の教えの信奉者であったことがわかります。というより春秋戦国時代の魯の人孔子も始皇帝と同じく身長180cmを超す巨躯の持ち主でしたからあるいは血の末裔だったかも。それはさておき、封禅とは孔子が理想とした周の聖人統治で出現した聖人を天が統治者として認めてくれるように請願する儀式で、逆に言えば(正確には対偶として)封禅の儀を行ったものを天が統治者として認めた聖人であるとする孔子の教えなのです。秦王政は孔子の教えに従って封禅の儀を泰山で行い、周以来初めて天命を受けた統治者として始皇帝と名乗った。これは後世捏造作文された偽史実ではなく事績でしょう。
この始皇帝の封禅の事績が夏とつながるのはここからです。
つづく
Commented by 通りがけ at 2012-09-13 23:16 x
つづき
文字通りの巨漢魯の人孔子が理想とした周聖人統治時代の伝説に、周よりさらに古い夏の時代に神人が国を治めていたがその神人(神農かな?)本人がさらに古くからの言い伝えとして「我が国の東のはてにある大海の海中に神仙のひとびとが暮らす別天地の島があり扶桑の島という」、こう言ったとあります。
仮に夏がメソポタミアだとすると、東の国境は海ではなく陸でありしたがって扶桑の島の存在など言い伝えにもなり得ないでしょう。しかし夏の所在が中国もとい支那であれば東の国境には日本海黄海東シナ海~太平洋という大海がありその海中に日本列島があります。扶桑の国が日本列島の古名であることと夏の時代の伝説神話が一致することになります。
この対偶をとれば夏の所在地はメソポタミアではなくシナであるということになりませんか?

余談に戻ります(笑)が、秦より約400年あまり後世の三国時代、江東の大国呉の孫権も碧眼紅毛だったようです。ひょっとして秦バクトリアの始皇帝の血の末裔なのかもしれませんね。
Commented by 通りがけ at 2012-09-14 00:37 x
余談ついでに、呉の孫権が陸遜を使って関羽張飛劉備を討ったとき日本では卑弥呼が初潮前の童女くらいの年頃かあるいは生まれる前あたりでしょうか(笑)
また、渡来人秦氏が秦の姻族であるならば卑弥呼のさらに400年前秦の方士徐福が二度にわたって連れてきた約千人あまりの少年~壮年男女が渡来氏姓秦氏の日本起源でしょう。徐福渡来伝説は日本列島各地にありますが、富士吉田家古文書にある最終定住地が駿河というのが一番合理的のように思います。

よって、漢字の伝来も仏教の伝来も教科書の記述とは違って徐福渡来時の紀元前2~3世紀ないしそれ以前に遡るとするのが正しい史実であろうと考えています。
Commented by nueq at 2012-09-15 10:11
泰山での封禅の儀を最初に執り行ったのが果たして王政であったのかどうかは検証の必要性があるかと思います。 なにせそれは「 史記 」に書かれた内容でしかないのですから。 つまり王政以前より行われていた可能性も考慮する必要があるように思えます。 また、封禅の儀を孔子の教えに従って行ったというのは極めて疑問です。 封禅の儀は、儒教のものというより、道教のものです。 この封禅の儀にもまた亀卜が重要な役割を担っています。扶乩は、始皇帝の泰山での儀の際から始まったと伝えられていますが、当然、それ以前から存在していたでしょう。
夏の黄帝( 少典の子で姓は公孫、名は軒猿という。fm 史記 )は、サルゴンで、「 東のはてにある大海の海中に扶桑の島 」とは、古代の大航海時代:海のハイウェイの東 = 東南アジアのことだったのかも、或いはその先にある日本列島のことだったのかもしれません。 支那の司馬遷がその伝説を引き継げば当然東の海中は日本列島となります。
呉の孫権も碧眼紅毛 ← この時代、支那大陸は現在のオーストラリアみたく流刑者・亡命者の地でもあったようです。
Commented by nueq at 2012-09-15 10:11
秦氏は重層・複合的に構成されていますので、その最初は除福一行ということで間違いないでしょう。 しかし、最終定住地が駿河と云うのは、重層・複合化後の秦氏であって、苑の徐氏:徐福一族とは限らない。 むしろ違う部族の可能性を考えています。 それが伺われるのが記紀だったか風土記だったかに登場するお蚕様騒動のくだりです。
また、徐福の時代、果たして漢字が完成していたでしょうか?
そのあたりは、発掘物と照合しなければならないので、今はただ疑問とだけさせて頂きます。
Commented by fang at 2013-02-03 20:27 x
マケドニア軍と兵馬俑の秦軍のどこが似ているのかさっぱりわからないのですが。http://www.livius.org/a/1/greece/phalanx.jpgとhttp://www.globalmountainsummit.org/images/terracotta-warriors/terracotta-warriors-8.jpgが本当に同じ格好だと主張するんですか?マケドニア軍はイッソスの戦いでは挂甲は使用していません。主に使っていたのはTube and York型の胴鎧です。Linothoraxでググってください。ディオドトス1世がユダヤ人云々にいたっては完全に意味不明です。そもそもサカ族にあれだけ苦しめられたバクトリア王国がどうやって彼らを突破して中国まで進出するんです?そしてそのアレクサンドロスに匹敵する偉業がギリシャ世界側の記録に全く残っていないのはなぜですか?
Commented by nueq at 2013-02-04 02:15
fangさん、コメントありがとうございます。

> マケドニア軍と兵馬俑の秦軍のどこが似ているのかさっぱりわからないのですが。

あのぉ~~~~、、、そんなことどこにも書いてないんですけどぉ。。。。(^o^)ゞ
もう一度よくお読み下さい。

> ディオドトス1世がユダヤ人云々にいたっては完全に意味不明です。

アレキサンダーの軍隊は実際には支那まで進出しています。
マケドニア ~ 支那の大帝国には、アレキサンダー軍の将軍・将兵が駐屯しそのまま独立王国となりました。 アレキサンダー軍の将兵はマケドニア人を始め様々な人種で構成されていました。

> そもそもサカ族にあれだけ苦しめられたバクトリア王国がどうやって彼らを突破して中国まで進出するんです?

「 中国 」ではなく「 支那 」です。
「 中国 」と云う語は現時点に於ける「 册封 」を認めるものです。

時間軸・空間軸の調整をお願いします。
30年など待たず、情勢は一変します。

Commented by nueq at 2013-02-04 02:15
< 続き >

> アレクサンドロスに匹敵する偉業がギリシャ世界側の記録に全く残っていないのはなぜですか?

ギリシャとバクトリアの間にはパルディアが進出してギリシャとの連絡は絶たれてしまいました。
支那に進出して故国は奪取され、中間地にはそれこそサカ族が進出し、短く超多忙な始皇帝のあっけない記録が遠くギリシャにもたらされたと思う方に無理があります。
Commented by 通りがけ at 2014-06-06 14:58 x
RKブログのなかで徐福渡来伝説の検証ページが紹介されていました。非常に興味深く読めましたのでこちらへも紹介します。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_193.html
by nueq | 2012-09-07 12:40 | 歴史 | Trackback | Comments(11)

覇権文明の終焉と 新しい地球文明を デザインする


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